静かにではありますが、徐々に学びのスタイルの変革を行っています。それは「勉強から学びへ」ともいえますし、「孤学から助け合いの学びへ」ともいえるかもしれません。「勉強」には、どこまでも強制的でおもしろくなく、いやいややらされるというイメージがつきまといますが、「学び」には、もっと明るく、どこか自発的なイメージを抱きます。
それは、人間にとって「学ぶこと」は、食べることや、眠ることと同じ、本能だと思われるからです。私には、3歳の孫娘がいますが、実に好奇心旺盛でさまざまなものに挑戦し、ものにしていきます。つくづく本能だなあと実感させられる次第です。成長とともに好奇心の対象は変化していくでしょうが、「学ぶこと」は、決してつらくてしんどいことばかりでなく大きな喜びや満足を得られるものと確信しています。
ただ、それをさまたげているものとして、次のようなことが考えられます。
① 点数による序列化により、競争を「学び」の中に持ち込みすぎる。
② 一人でもくもくとやることを強制される。
③ 基礎学力不足で内容が十分に理解できない。
まず①ですが、「学ぶこと」は本来競争とは無縁のものです。逆に競争とは対極の世界といえるでしょう。純粋に真理を追究することであり、そのことにより、知る喜びを分かち合う世界です。知識の獲得を序列化し、競わせることは「勉強」に於いてのみ、なされることです。それは、勉強には、競争に勝つ喜びを導入しない限り、モチベーションが上がらないからです。しかし、敗れた者はしめ出されてしまいます。
次に②ですが、「一人でもくもくとやる」、これも、強制すべきものではありません。人間は社会的動物ですので、わからないことは、お互い助け合うのがいいと思います。一人でやっていますと、どうしても壁にぶち当たりますし、それをのり越えるのには限界があります。友達(場合によっては教師)の援助により、楽しく(・・・)解決していくのがいいように思います。ただ、教師は、甘えや依頼心の助長につながらないよう、注意していなくてはいけないのは、いうまでもありません。このように学びの社会性を育てていくことが、学ぶことは楽しいことだと思える重要な要素だと思います。その根底には、競争ではなく、助け合いの心が流れているからです。
ただ、友達や教師の援助で理解できたことをもう一度、しっかり自宅で復習するという「内化」の作業は、どうしても必要です。
最後に③ですが、ほとんどの場合、このケースはそんなに多くはありません。援助してもらえば、だいたい理解できるものです。ただ、将来の飛躍のためには、土台はしっかりしていることにしくはありません。そのために復習の時間も設定しています。
これから、いい季節がめぐってきます。大いに楽しく学んでいきましょう。
廣瀬
最近のコメント